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楽山園

最終更新日:2013年11月25日

指定:平成12年3月30日 国指定名勝
   昭和58年2月22日 県指定名勝
   昭和38年11月1日 町指定名勝
所在地:甘楽町大字小幡648ー2 他

87 楽山園 

 元和元年(1615)織田信長の二男信雄(ノブカツ)が、大和(奈良県)宇陀郡三万石と上州(群馬県)小幡二万石を与えられた。翌2年に信雄の子信良(ノブヨシ)は福島の仮陣屋に入り、織田氏による小幡藩政が始まった。
 3代信昌(ノブマサ)は、寛永6年(1629)に小幡陣屋への移転を計画し、場所見定めを重臣の松原勘兵衛が当たり、地割・御用水割・水道見定めには金井村の郷士江崎三郎兵衛が務めた。
 寛永19年(1642)普請(建築工事)を完了して小幡陣屋に移転した。藩邸がこの地に設けられたのは、ここが旧小幡氏重臣熊井戸対馬守正満の屋敷跡であり、雄川の断崖を側面にもつ要害の地であったからと、雄川堰より豊かな用水が取り入れやすいこと等であろ。
 明和4年(1767)織田氏が出羽(山形県)高畠へ移されると、代わって小幡藩主となった松平氏もこの藩邸を本拠とし、明治を迎えた。
 親藩(徳川将軍家と親藩の藩)の松平氏は代々幕府の要職につき、特に3代忠恵(タダシゲ)は、その功によって嘉永3年(1850)に「城主格」を与えられたので、以後この陣屋は『小幡城』と呼ばれた。
 廃藩置県後、小幡県庁から熊谷県の庁舎として使用されていた藩邸は、明治6年(1873)に他の旧藩所有財産と共に競売された。当時の記録によれば、藩邸の中心となった建物は、茅葺き平屋建243坪(畳231畳・板戸59本・襖30本・障子127本など)であった。

87 楽山園 藩邸部  87 楽山園 土塁

87 楽山園 中門 
87 楽山園 長屋

楽山園

 この庭園は、織田氏によって造られたもので、「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」という「論語」の故事から名づけられたと言われる。江戸時代初期の池泉回遊様式(庭を眺めるだけでなく、歩いても楽しめる)の庭園で、京都の桂離宮と同じ特・色を有している。
 広い昆明池(コンメイイケ)を掘り、いろは48石を配し、築山にあずまやを建て、熊倉山・連石山・紅葉山の借景(周辺の景色を巧みに利用する)によって庭園美を盛り上げる造り方は、当時の大名の趣向をよく表している。
 平成9年度(1997)から平成17年度(2005)まで発掘調査を実施し、平成14年度(2002)から平成23年度(2011)まで復元整備を行い、往時の姿が蘇った。
 県内唯一残っている大名庭園として貴重である。

   

番所と中門

番所と中門

庭園と借景

庭園と借景

拾九間長屋

拾九間長屋

庭門

庭門

土塀

土塀

梅の茶屋と桜

梅の茶屋と桜

朝露のアカマツ

朝露のアカマツ

庭園南側から長岡今朝吉記念ギャラリーを望む。雲の上は榛名山。

庭園南側から長岡今朝吉記念ギャラリーを望む。雲の上は榛名山。

初秋の庭園

初秋の庭園

白銀の朝

白銀の朝

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